みんなと繋がれたらいいな、みんなと優しくし合えたらいいな、という思いは、小さい時からずっとあった。
でもそれは、なかなか叶わない。大人になると、悲しい現実に直面する。
その代表的なステージはあるとしたら、恋愛だろう。
男と女は異質なもので、お互いに惹かれあっていても、抱えている要求が違っている。愛なくして与えていると、大怪我する。
私が子供の頃は、家が厳しかったので、安易に男の子と遊びに行けなかった。好奇心だけで深く付き合うことの危険から守られていたのだと思う。自由がなかったが、一人の時間を長く過ごすことで自己洞察や自己理解を深め、大人になってから、恋愛や人間関係で大怪我をする一歩手前で踏みとどまれるようになった。
もし恋愛に覚悟なしに飛び込んで深い傷を負ったとしたら、その人は傷つけた人への恨みや復讐心を潜在的に持ち続けるのではないだろうか。異性と出会うたびに、自分はそんなに安物ではない、だからあなたにも安売りしないと、深く関わる時にも、過去の痛みを持ち出して、拒絶を繰り返すだろう。
でもそれは、本当に価値ある出会いを遠ざけてしまう。
セックスで傷ついた人を救うことができるのは、その人の傷の痛みと復讐心を丸ごと受け入れることができる人だ。
なぜ私は防波堤の外に挑もうとしているのだろう。
今まで心理学カウンセリングの場で、このような話を何度も持ち出したが、皆、性に関しては防衛的て、社会的ルールを持ち出して丸く収めようとした。
この人たちも、ずっと守られてきた人で、防波堤の外で大怪我している人の苦しみなんてわからないし、理解しようともしていないのだ。
いや、理解するのが怖い、と言ったほうがいいかも知れない。
前回の記事を読んだ方から感想をいただいた。性というデリケートな部分は、なかなか直視できない、誤解のないように魂の真ん中を見なければいけない、というアドバイスをいただいた。
魂の真ん中って、どこなのだろう。
女が男の暴力を怖がるように、男も女の感情を怖がっている。
例えば私の夫は、私の人物画を見るのが嫌いだ。情念がこもっているからだそうだ。
女の情念は男の創造性や自由を奪うらしい。日本の怪談話に出て来る幽霊はいつも女だ。男に捨てられた恨みを持ち続けて、しつこく男を追い回し、呪い殺す。当時の女は男に頼るしか生きる術がなく、全身全霊で愛を捧げたのだから、そうなるのも、理解できなくはなかった。
私は現実世界で情念を人にぶつけるのが苦手なので、絵の中で表現していた。凄まじい絵が出来上がるたび達成感と脅威を感じた。私が抱えている情念を男が受け止められるのだろうか、受け止めてくれたらいいのに、という気持ちが、心の中で行き来していた。
魂の真ん中では、嵐が吹き荒れている。激しい生存欲求の嵐だ。
私たちは孤独に飽きた時に、危険を冒して他者と交わり、大地とつながり、受容し合う。そして、あらゆる欲望によって自分を満たしたり削られたりして老いていく。一度大地に飲み込まれたら、創造力も思想も、どんなスピリチュアルも絵空事にしかならない。
私たちはなぜ嵐に翻弄されるのか。それは本能として、「孤独になりたくない」からだ。子供が母親を求めるように、本来生まれた大地に庇護を求めているのかも知れない。徹底的に受容され欲望にまみれて精神性を失った人は、殴り合って血塗れになっても、他者と共に生きるしかないのだ。
この嵐を共有できる人こそが、真から繋がれる人なのではないかしら。だって嵐はどうやたって取り繕いようがないから。
でも、ここまで行ってしまったら、人生は地獄絵図だ。そうならないようにちゃんと生きるには、ある程度のスピリチュアリズムは必要だと思う。
『焔』上村松園 1918
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