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父の死。

9月15日、夜9:20ごろ、母から電話があった時は、不思議と落ち着いていた。もう何度も危篤と回復を繰り返していたので、心臓が慣れていたのかもしれない。ただ、いつもより母の声が引き締まっていたので、私は厳かな気持ちでホスピスへ向かった。

電車で1時間半。上大岡駅に着いてトイレに入ると、備え付けのサニタリーボックスからお菓子の箱や汚れた生理用品が溢れ出ていた。人間の本性を見ているようで、ギュッと胃が縮んだ。生涯真面目に働き、稼いだお金を家族のために遺した父の清さを尊く感じた。

病室の父は白い蝋人形のように目を閉じていた。母の「きれいな死顔よ」という言葉が、ひどく虚しい慰めに聞こえた。

ホスピスの父に初めて会ったのは今年の4月だ。その時はとても無邪気で、絵の話、展覧会の話を喜んで聞いてくれた。ホスピスでも明るい癒し系キャラだったようで、介護士さんの人気者だったようだ。家では寡黙で厳しい父だったので驚いたけど、ホスピス生活は意外と楽しんでいたのかもしれない。(現役時代の営業職の顔だったのだと母は言うけれど)

その夜は実家に泊まり、翌日は葬儀屋で葬儀の打ち合わせをし、湯灌に立ち会った。
死顔が生前の顔と全く変わってしまう人がいるけれど、本当に父のままで目を閉じていて、葬儀屋の人が骨と皮だけになった体を洗い、せっせと洗髪し、お化粧をした。父の思い出と一緒に、涙が溢れ出てきた。そばにいた母は、燃え尽きたように茫然と父を見つめていた。



パーキンソン病が進行し生活が困難になってから、およそ3年。母と弟が介護で闘うような日々の中、父はコロナ禍で私や私の家族と会えないことを寂しがっていたという。

家族の奮闘も虚しく、どんどん痩せ細って弱くなっていく父は何を思っていたのだろうか。
私は誰の迷惑もかけずに一人で死にたいと思っていたけど、改めて、人の死際の壮絶さを思い知る。

当たり前にできていたことが一つずつできなくなり、意思を伝えることも、呼吸をすることもままならなくなって、ただ心臓が止まる瞬間を待ち続ける。どんなに恐ろしいことか、経験不足の私には想像ができない。死を経験したことがない家族は、近づいてくる近親者の死の恐怖や痛みを共に感じ、必死でそばにいる。

父が逝った。生前関わった人たちは、それぞれ、怒ったり、悩んだり、楽しんだり、色々あったと思うけど、私は今、きれいな思い出しか残らない。
習字やソフトボールを教えてくれた父。結婚を承諾してくれた父、展覧会や手術のお見舞いに来てくれた父は、いつも静かな優しさがあった。感謝を込めて、私は遺影を描いた。




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