朝スーパーへ行くと、無表情な主婦が神経質に果物や野菜を選んでいる光景をよく見かける。ロボットのように食材をカートに入れ、淡々と会計を済ませて帰っていく。
今晩の夕食のことを考えていたのだろう。衣食住のことを繰り返し考え、歳を重ねていく私たちは、否応なしに大きな流れに乗って生きている。
何日か前から、ニュースで未婚率増加、少子化の原因についての記事をよく見る。
少子化対策として、政府による金銭的支援は何度も行われてきたものの、改善が見られないのは、問題の本質は経済面ではなく、精神的、経済的に自立できない若者は生きること自体がむずかしく、人を生み育てていくなど到底無理だと考えているからだという指摘がある。
気持ちは分からないでもなかった。
私は20代の頃、子供どころか結婚にも希望が持てなかった。人間として女としてちゃんと経験を積んでいる気がしなかったので、誰かの責任まで負える自信がなかった。
世間では、結婚相手に一定の年収や学歴を求める人たちがいて、恋人を何度も取り変えていたが、人生をどう考えているのかわからなかった。そのように条件を相手に課せる人は、自分にもそれ相当の自信があるのだろう。私は自身をイケてる女子と思っていなかったので、こんな私と共に人生を戦ってくれる人を探していた。
30代でフリーランスとなり、小説執筆の勉強を始めた。「やりたいことは何ですか?」と先生に繰り返し問われ、私も含めた学生たちはセックスを題材に作品を書くことが多かった。しかしセックス は本能であって、「やりたいこと」ではない。やりたいことは何か。自分を掘り下げるように作品を描き続けたが、なかなか見つかるものではなかった。
スーパーでよく出会う無表情の主婦たちと、「やりたいこと=セックス」と考える人たちの本質は同じだ。
目的がなく生存本能で生きている。生物は皆同じことをしているので、個性ではない。生きるために社会の大きな流れに乗っている。
そんな十把一絡げの人であるのは不安だった。流されていたって、突然内部の火山が噴火したら何をしでかすかわからない自分が怖かった。テレビでよく見る穏やかなマイホームのCMを見ると嘘っぽくて笑った。とにかくここから逃げ出したかった。
アイデンティティの危機を何度か経験して気づいたことは、大きな流れから外れ安心が崩れても、私の中で崩れなかったもの、あるいは崩れまいと守ったものが確かにあったことだ。
思い通りにいかない時、プライドが砕かれて足場を失った時、これからどうしようかわからない時こそ、自分がどこへ行きたいか、どこヘ行くべきかを体が教えてくれる。
私たちはいかに頭で生きているか。でも頭よりも、体の方が意外と自分をよく知っていて、正直なのだ。その時に見た風景の優しさや周りの人の息遣いが私の中に埋れていたものを掘り出てくれたと言っても過言ではなかった。
やりたいことは何ですか?
その問いには、今もはっきりとは答えられない。だけど日常の節々で、私は無意識に実践していると思う。今日もどこかで、あの時の私のように足場を失って彷徨っている人がいたら、あの時の私がしてもらったことをするだろう。その人が立ち直り人生を再び歩み出すことを願って。
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