もうすぐ私の町でインドのお祭り「ディワリ祭」が行われる。インド人の友人からよく話を聞くし、インドの食を堪能したいと思うのだけど、外国人に抵抗のある夫が快く承諾しないので、躊躇してしまう。また、SNSやブログを投稿するときも、この記事を家族が見たらどう思うのかがチラッと気になってしまう。
どうしてここまで家族の顔色を気にしてしまうのだろうと、自分でもうんざりするのだが、自分自身も家族という帰属意識と、異文化に触れ開眼したいという気持ちが常に葛藤して、伸びやかに行動できなくなっている。
夫も私もあまり社交的でないため、帰る場所として「家」を大切にしている。それはそれでいいのだが、一歩家から出て、冒険の場所へ踏み入れたりすると、どこへ飛ばされるかわかんないような不安もあったりする。
しかしながら家族という集団に限界を感じているので、もう一歩世界との深いつながりを求めたい気持ちがやまない。
誤解しないでほしいが、家族とのつながりに限界があるとは、これ以上仲を深められないというのではなく、「帰る場所」と「生きる場所」は、はっきり区分けしたいのだ。私は家とは別に、自分の可能性を探求する別の居場所を必要としている。
このことについて多くの日本人は誤解していて、家から離れることを不義理だとか無責任だとかいう人も多いが、では義理とか責任って、何だろうかと疑問に思う。問題なく生活を営んでいるし、それ以上人生を良くするのは個人の問題で、それを配偶者とか、家族とか他人に求めるのは無理なことなのだ。
愛がないわけではないが、最近私は、家族と遊びに出かけても波長が合わず楽しめない。これは私の嗜好と、夫や娘の嗜好が合致していないからで、これを「何とかして」と家族にお願いしても、「それはあなたの問題でしょ」と言われてしまう。まあ、そうなんだけど🤣。私の問題を解決できるのは私だけで、そのために自由に行動する権利を誰に止められても困るのだ。
例えば夫が、他の友人と解放されている私を見たら、少なからずショックを受けるかもしれない。なぜって私をそういう人と思っていないだろうから。でも、驚くのは案外最初だけで、その後はそういうものとして受け入れてしまうかもしれない。
私は自分が思う以上に、家庭人として真っ当であろうと頑張りすぎているのだと思う。それはある意味、自他ともに安泰の場所を守ろうとしているからだ。
では安泰の場所なんて、本当にあるのだろうか。
人は自分の持っている認識が崩れるときは、混乱し否定的な気持ちになる。
実際、父が亡くなった時、母が弟とべったりだったところを見て、私は母への信頼が崩れた。私の認識している、何でも受け止めてくれる母親像が壊れたから。でも、よくよく考えれば、大人になっても何でも受け入れてくれる度量のある母親なんてそうそういないわけで、よく今まで寄り添っていてくれたなあと思う。それからより深く自分自身や母のことを見つめ、母の人間像を深く理解しようとした。私の理想とは違うものでも、母と縁を切ることはできないし、実際私はそんな母から生まれてきたのだから、似ている部分があるのだ。
私は完璧な人ではない。誰でもそうだと思うけど。
一見穏やかでリーダーシップがあるように見られるけど、他人の感情の影響を受けやすいし、批判されると動揺しやすい。いろんなことを気にするし愚痴を聞いてもらい、甘えたいところはいつまでも消えない。
母も同じ気質なので、父が死んだときは動揺に耐えられずに、必死で弟にしがみついたのだろう。私はそれまで「甘える」ということに否定的だったので、そんな母を見た時は幻滅した。でも本当は、家族の一大事の場面に、助けに入る勇気が持てなかった自分自身を一番嘆いていた。
今では自分の弱さを受け入れ、少しは目の前の悲しみに立ち向かおうと思えるようになった。家族の一大事が来た時には、今度こそ立ち向かわなければと思う。そうしなければ、自分自身をも否定することにもなりかねないから。
それって、とても大変なことだ。
私は今までどれだけ、自分の負の感情から逃げてきたのだろう。プライドを崩されたくない、平常の自分を失いたくないから、本当に好きな人やモノから逃げてきた。
本当に感じていることは、本当に言葉にしていることと違っていたりする。一番感じていることを言うのは勇気がいる。相手がどう思うかを考えることで、自分を守ることを許さないから。
誰もが自分の感じていることを言わずに、2番目に感じていることばかりを言っていたら、その人間関係は、スカスカで中身のないものなってしまう。相手を傷つけないように、悪く思われないように配慮しながら、ものを言ったり行動したりすることはとても疲れるし、長い目で見て何の得にもならない。かえって信用を失うだけだ。
いつも同じ場所にいる人など存在しないし、だからって私の周りに誰もいないということもない。
私がどうにかなっても、他に誰かが助けるだろうし、たくさんの人と繋がっている限り、何かしらどこかで助け合うようになっている。
生きていく過程で、あらゆる人間関係の場面で、個人の才覚や直感や感性を活かして、頃合いを測ったり、押したり引いたりするテクニックは必要だけど、それも息をするように誰もが学んでいく。
大切なのは行動だ。今までいた場所から離れたり落ちることになっても、そこから這い上がる覚悟があれば道は続き、世界は開かれる。そう信じて生きる。
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