人間関係も仕事も愛も、一度深いところまで行ったらもう浅瀬にはいけないんだなあ、と最近思う。
私は共感体質なので、普段から周りのものに色々と影響を受け、腑に落ちるまで自分の着地点を探す癖がある。その結果、自分にとって一番生きやすい生き方になっているが、時々「あなたは幸せだね」とか諦めたように言われる。
私自身は、「人は幸せになってナンボだ」と思っているのだが、その種の人たちは、幸せになるのが残念なことのように思えるらしい。
幸せの形は「人それぞれ」だ。
人それぞれという言葉は、これまで何度使ったことだろう。人の見ている世界は本当に多様で、一つ一つを表現するのは難しい。ただ私のことを「幸せになって残念」に思う人は、その人が不幸せであるか、あるいは不幸せを楽しんでいる人だろう。
私は今、幸せだ。相変わらず人に影響されて、あれこれ考えたりするけれど、それによって自分の隠れた欲望を知ったり、新しい生き方が見えたりする。発見はエキサイティングだ。発見を積み重ねると、悩まなくなり、体の融通が効くようになる。快不快がはっきりし、走りたいと思えば走れるようになるし、食べたいと思えば食べられるようになる。ストレスがなくなれば一瞬一瞬が穏やかに美しく流れていく。
私は今、この流れに従い、インスピレーションやアイデアを絶えず生み出している。
こんな私でも若いころは、物事の暗い面ばかり見て悩んでいた。そしてこれ以上傷つかないようにいろんなものを決めつけていた。決めつけることは、感性を凍結させる。毎日のいろんなことに感動できなくなるので退屈する。そういう人は創造性が麻痺しているので、不幸せだと思う。
決めつけを止めれば自由になるのだが、これは結構難しい。「自分は魅力がなくて無力だ」とか、「お金や名誉がないと愛されない」とか、「自分は卑屈で嫌な人間だ」とか。過去の経験や誰かの思い込みをそのまま引き継いでいることもある。それを一個一個解き放っていくのは地道な作業だ。
毎日卵の殻が剥けるように、私は今センシティブだ。共感体質が進んでくると、波長の合う人と引き合い、不快な人からは遠ざかるようになった。そして合う人たちとはより深く理解し合うようになっていく。
共依存ではなく、共感し共存する。これは素敵なことだ。
辛い時も、悲しい時も、その時その時にストライクな言葉を投げて元気付けあいながら、一緒に生きていく。それができるようになったらもう、いい加減な言葉や行動で人とつながることができない。タイムラインにたまたま流れてくる派手な投稿に「いいね」 を押せなくなるように。
でもそれでいいんじゃないかなあ。幸せは「数」では表せない。稼いだお金、フォロワー数では語れない。本当の幸せはとても個人的なもので、伝わる人にしか伝わらない。でもだからこそ、伝わったことはとても貴重な体験になるのだ。
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