アジア系の写真家さんからFacebookの招待をもらったので覗いてみたらサソリの上に白い虫が密集している写真があった。全体的にクオリティは高いけど、気持ち悪い世界なので見送った。
密集した虫とか植物、内臓が飛び出た動物などをモチーフにした作品をSNSでよく見る。ぐちゃぐちゃした感じの中に美しさとか息苦しさとか生命力とかいろいろ感じているのかもしれないけど、気持ち悪いので、非表示にする。でも作る側からすれば、それがこの人の見ている現実であり、何かを訴えたいのかもしれない。
私も以前はそういったカオス的なものを可視化しようと試みたことがあったけど、今はもう描きたいと思わないな。
近年、細かいものが密集しているのを見ると、蕁麻疹が出てしまう。非表示にするけど、そのあとも画像が脳裏に何度も現れて、薄気味悪さを味わおうとしてしまう。なんかな、その画像に引き止められているみたいだ。「私を捨てないで」って。
でも、振り切って行かなくてはならない。なぜって、そこにいたら、真理から遠ざかってしまうから。
本当の美意識に出会いたかった。カオスの中にそれがあるかもしれないと思って探っていけど、全部白灰になってしまった。カオスってなんだったのか。今はもうそこには戻りたくない。なぜって、無駄にエネルギーを燃焼するだけだから。
最近、自身の中の卵の殻が壊れて、中から丸い柔らかい黄身が出てきた気がする。それは些細なことに傷ついたり喜んだりするけど、失ったものが再び戻ってきてくれたので、今度こそ大切に守り抜かなくてはならない。
「王女と11人の王子」というデンマークの民話を思い出した。
意地悪な王妃に国を追われたイライザという王女が、白鳥にされた11人の兄弟の王子たちを救うために王子たちに着せるシャツをイラ草で編むよう、夢の中で妖精に告げられる。編んでいる間に口を聞くと王子たちにかけられた呪いを解くことができないので、王女は黙々と編み続ける。それで周囲に不審がられて裁判にかけられ、火炙りの刑にされる寸前に、出来上がった11人分のシャツを白鳥たちに着せ、無事王子たちを人間の姿に戻すことに成功するという話なのだけど、これは、卵の黄身を守っている私にもつながっている気がした。
秘められた場所でこそ育つもの。
外部の手にかけられず、誰に許容されたわけでもなく、在り続けている何か。
それがとてつもなく強力であることは、かなり幼い頃から感じていた。
野生動物は食べて寝て生殖活動を続けて行く際に、平和平等にならない現実と残酷さを許容している。
「私」というものの形をなさない。人間にとってそれがどんなに危険なことか、全く意識しない人は多分いないだろう。
あまりに生活のために取り繕っていると、ある日突然噴き出して、いろんなものを破壊しそうで私は怖かった。
これらの対応策は何か。
おそらく「愛」だと思う。
自分のカオスの中で陶酔するのでもなく、かといって自己犠牲的に外部に奉仕するのでもなく、内外の世界を融合させ、「私」というものの形をなさないことが怖くなくなった時、新しい地平が見えてくるのではないかと思う。
それはもしかしたら、自分が最も恵まれていると思うものを手放すことかもしれない。
少しずつ感じ始めてはいるのだけど、完全に飛び込むのはもう少し時間が必要かな。怖いような楽しいような気持ちで、今を生きている。
「言葉とアートで人生をブレイクスルーするフリーランス画家 佐藤智美」メルマガ登録はこちら
【TOMOMI SATOS ART WORKS】https://www.ts-artworks.com
【TOMOMI SATOS ART】https://artworks2017.thebase.in
【ねんど美術館】https://tomomiart.site