AERAで婦人問題評論家の坂東眞理子さんが女性教育のあり方について語っていた。従来の男性的価値観では、出世や権力が能力の証しだと考えられ、強いリーダーが旗を振り、皆を引っ張っていくのが普通だったが、今は多様性を尊重し、相手に共感しながら物事を前に進める“インクルーシブリーダーシップ”が必要であり、それは女性に長けている能力であると説いていた。
なるほどな。坂東さん、良いことを言う。これから多様化が進んで、皆がそれぞれの考えを持って生きているなら、誰か一人の考え方が全体を支配して引っ張っていくのは不可能だ。代わりに他者と共感し係わる能力が必要になるだろう。
多様性。まさに現代アートの世界でも起きている。
一人一人が、何か言いたくて物作りをし、叫んでいる。いろんな声、考えでアートの世界は混沌としていて、何がよくて何が悪いのかよくわからない。
本当に美術を楽しむ人は、結局は好き嫌いで作品を見る。美術史の文脈云々を考える人なんて一部のインテリだけだ。だから個性の数だけ作品も多様化する。売れ筋とかトレンドとかで頭一つ抜けるとしたら、作家の声が大きい方が勝つ。それくらい美術の評価って曖昧だ。
私は人間に興味があるので、人間が丁寧に描かれている作品が好きだ。情緒的な部分を守っていきたいのは変わらないし、それはそれで自分の価値観だと思うんだけど、同じ嗜好を持たない人、別の捉え方をする人も世の中にはたくさんいて、そういう人たちといかにコミュケーションして接点を見つけ、共存していくかが現代の生き方なのではないか。
自分自身に素直でいると、異質な他者と接するのに疲弊する。でもだからといって自分の世界だけにとどまっていてはいけないことは本能的に感じている。若い人たちを見ていても、世界は秒速で進んでいて、立ち止まったらどんどん取り残されていくからだ。
ここでとょっと、書くのをやめて、Threadsを眺めていたら、「生き抜く」と「生きる」の意味の違いについての投稿が流れてきた。
「生き抜く」とは生存欲求であり、「生きる」は自分の存在を生きること。「生きる」は、自分の良いところも悪いところも受け入れ喜びを生きるアーティストマインドだ、というようなことが書いてあった。
ここで、ふと思う。生きるために私は、いろいろな人を理解し受け入れようとしているの?
それは違う。多分、私自身と取り巻く世界を愛したいのだと思う。だから、合わない人からは、遠ざかって良いのだ。
太古から芸術家という存在はいて、権力者の肖像画を描いたり、商売の宣伝協力をする役割を持っていた。今は自由な時代になり、誰もが思い思いのことを叫んで、誰かに刺さることを願っている。
現代はいろいろな声で溢れている。楽しくて刺激的で喧しい世界。埋没しないためにも、不要なものは断捨離し、本当に必要なものとつながっていかなくてはならない。私は今、自分の居場所と足場をしっかりと意識する。
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