最近家族で遊びに行くのがしんどくなってきた。子どもが成長して個性の違いが顕著になると、今まで調和していたことが崩れてくる。
夫と娘は比較的感覚が近くて、3人の会話は大体2対1になり、私が余る。面白くない時はどこかへ行きたいのだけど、外出中は基本的に団体行動なので、二人にずっと合わせることになり、せっかくのレジャーの時間が疲労で終わってしまう。よそのお母さんはどうなのかなあ。それでも家族に合わせてるのかなあ。
そういえば、日頃からお菓子を買うにしても、家族の好み気にしたりとか、外出するにしても家族のお土産気にしたりとか、知らず知らずのうちに家族を気遣う習慣ができていてた。
私はもう、家族のために何かすることを考えていたら、だめなんだろうなあと思う。
皆もうお腹いっぱいなのだ。それはそれで私がやってきたことが実になった証だから良いのだけど、お腹いっぱいの家族にさらに何か与えようとしても、拒まれるのは目に見えている。なんでって、私もそうだから。そんなことより、心から人生を遊びきれていないのは私の方で、なんとかしなければ、先々潰れる。
必要なことは断捨離だ。こうしなければ生きていてはいけない、という思い込みの義務。今までのことを続けたら私はおそらく病にかかって早死にするだろう。
夫との関係も、結婚当初からだいぶ変わった。お互いのことがわかってきて、無理に合わせる必要も無くなった。ただ、私の中では、もっと周りの役に立ちたいという欲求が大きくなっている。だからなおさら、家族という小さなコミュニティの中で収まっていてはいられないのだろう。
とはいえ、いつも家にいて安心の要だった私が家からいなくなったら、不平不満が出るだろうなあ…と思って、ハッと気付く。これは執着だ。みんなでいないと生きていけない、という無意識の縛りは、実は昔から私の中にあった。
でも本当にそうだろうか。今だって窒息死しそうなんだから、ここから離れたって一緒ではないだろうか。それならもう、先々どうなってもいい気がしてきた。
夕飯の時、いつも家族の見ているテレビ番組に付き合うのだが、その日は私の好きな心理学のYouTube動画をテレビで見ることにした。一緒に観ていた娘がつまらなそうに去っていった。
スーパーで一目惚れして買ったレモンケーキを冷蔵庫から出して、セイロンティを入れた。娘に勧めると「いらない」と言われ、夫は歯磨きを済ませていた。でも自分が食べたかったレモンケーキを食べるのは一人でも満足だった。
楽しみを身近な人と共有するのはとても充実した時間だ。皆の波動が合う瞬間はそんなに多くないから。そういう瞬間がどんなに貴重かを改めて感じた。
日常の中に灯る感動の炎。頑張っていたことが実になった時、素敵な人に会った時、心が通い合った時、それは私の中にいきいきと灯り、誰かに分け与えたくなる。今までは家族との時間がそういう時間だった。でももう時は過ぎ去り、この炎が誰も照らすことなしに鎮火してしまうのは心から悲しい。こんな現状をなんとかしなければと切実に思っている人は、多分私だけではないだろうな、と思う。
家族のために身を粉にして働いているお父さん、楽しみを我慢して家族の世話をしているお母さんたちの中から、よく「自由がない」「自由が欲しい」という声を聞く。でもそれは自由がないのではなく、役割をこなすことで人生をクリエイトする自由を放棄しているのだと思う。
そういう人は実際、「自由」を手にしたら何をしたいのか、明確な答えは持っていない。定年後にヨット旅行をしたいとか、趣味を極めたいとか、大きな夢を描いて実現したとしても、心は全然自由になれていなかったりする。
でも日常の間に、普段なら人に合わせていることをやめて、自分の小さな「これがしたい」に従ってみると、意外と自分の殻が破れることがある。
たとえば、あまり馴染みのない近所の人たちの集まりに行って、皆の役立ちそうなことを提案してみたり、疎遠だった人に「お元気ですか」とメッセージを送ってみたり、家族旅行を断って一人旅に出てみたり。トラウマや恐怖が阻止していた興味を動かして、人と心が通い合う瞬間は、自分をもう一歩前進させる力がチャージされる。家族間だけで可能なことではない。ご近所や職場、趣味の仲間など、扉をひらけばチャンスはどこにでも広がっているのだ。
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