8月開催のIndependent Tokyo 2025まで1か月半を切った。今回は肉筆絵画とねんど作品を展示しようと思って、夜な夜な頑張っている。
今までデジタルアートを制作してきたのに、なぜ今更肉筆なのかという声が聞こえてきそうだが、手で制作することで自分の作品に一層愛着を感じられるようになったから。
絵の具を混ぜ合わせたり重ねたり、粘土をこねたり引き伸ばしたりという作業が、意識せずとも自分の何かを作品に落とし込んでいくようで、手作りの魅力に引き込まれていると言ったところだ。
2005年から始めたデジタルアートはグラフィックデザインの仕事で使っていたAdobe Photoshopで日常や人生のワンシーンを切り取って描いていた。デジタル効果をふんだんに使うよりは、手描きのようなぬくもり感を出したくて、絵の具を塗ったキャンバスや色鉛筆画のテクスチャをレイヤーで何枚も重ね、画像をモニタ上で拡大して細部を緻密に描き込んだ。制作日数は1か月から5か月ほど。結構手間がかかる作業だが、苦労して作ったマチエルは印刷すると平面になってしまうのが残念だった。
今のデジタル印刷は、紙だけではなくアルミ複合板やアクリル板など、支持体の種類も増え肉筆に近い表現もできるようになった。インクの耐久力も上がり、私が銀座で展示をしていた頃、いろいろなコレクターさんに「デジタルアートはカラーコピーだから」とか、「耐久力が心配だ」とかいう理由で購入を断られたものだが、今や肉筆よりもデジタル印刷の方が展示における耐ガス、耐光性は上回っているのではないかと思う。
これまでに制作したデジタルアートは60点以上となり、2023年に制作人生のダイジェスト版として画集を作ったが、それぞれの時代に自分が考えていたことや感じてきたことを振り返っているようで感慨深い気持ちになる。
前にどこかでつぶやいたことがあるけど、私は美術のための美術をやってきた訳ではない。いつも人生で戦っていて、見つけたものをとにかく多くの人に知らせたいという一心で描いてきた。それらが一冊の本になると、自分はストーリーしかないな、とつくづく思う。
昨日テレビで現代美術家の絹谷幸二さんの一家のことが紹介されていた。
芸術家の大家族が高級住宅街で一つのマンションに住んでいるというのだけど、今どきそんなセレブ美術家っているのかと驚いた。そして、ああ、こういう人が、美術のための美術をやっている人なのだな、と妙に腑に落ちた。
最初からエゴの蓋が外れていて、感動を表現に置き換える自由をめいいっぱい生きている人。そういう人の作品は言葉の力を借りなくとも、インパクトが強い。感動と対価が滞りなく循環しているんだろう。
そのように生きられたらいいなあ、と思う。だって、気持ちいいと思うよ、余計な事考えずに、湧き出るまま表現して呼吸するように出していけたら。晩年の田中一村も、そんな感じで絵を描いて逝った。芸術家にとって(何かに魂を捧げた人にとって)、死は土に還るのではなく、天国にダイブすることだ。幸せかどうかって、知名度とかお金とかじゃないんだよな。かと言ってそれらを否定するのではなく、全てが呼吸するように循環している。私も死ぬ時に、その領域に行けたらいいなと思う。
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