• 心理学,  生き方

    「人」を知るとは、「自分」を知ること。

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    子供の頃は、大人の男性が怖くて、近寄ってくると私はすぐに母の後ろに隠れた。大きな体で、力も強く、小さな私の体をひょいと持ち上げる。私はあまりにも無力な自分を悲しんで泣いた。大人の男性は、そんな私を見て無邪気に得意げに笑った。

    「人が怖い」という感覚は、常にあった。頼もしかった友達が乱暴になり、親切だった友達が意地悪になる。人は豹変する、ということを幼くして知っていた私は、容易に人に心を開かなかった。

    しかし、最近はオンラインやオフラインで、あ、この人素敵だな、と感じることができるようになった。他人のプラスのイメージに心を動かされるようになったのは、この年齢になって余裕が出てきたからだろうか。

    人間。それはいつも、魅惑的で危険な生物だった。向き合う時の、この緊張感はどこからくるのか。強く惹きつけられても、心がざらついてくる。未開の土地に身一つで入っていくような感覚。そんな時は、今向き合っている「対象」を、より深く知りたくなる。
    どのようなところで生まれ、どのような子供時代を送ったのか。表向きの顔の下に隠れた感情を知ると、初めて私とその人の間に絆ができる。

    「人」を知るとは、「自分」を知ることだ。そして、「惹かれる」ということは、私にないものや、失ったものを再確認するということだ。
    美しいものと向き合う時、感動と同時に負の感情が湧き起こる。持っていないものが欲しい(飢餓感)。失ったものを取り戻したい(喪失感)。自分にには届かない(無力感)。
    矛盾する感情に突き動かされた結果、それを手にして深く愛したり、飽きて他のものが欲しくなったり、失って悲しんだりして、多くの人は、他者との関係を堪能したり浪費したりしている。

    私は、無いものねだりにしかならないものを、いつまでも追いかけたいとは思わない。追いかけても私のものにならないなら、ないことに苦しむだけだからだ。私は、今あるものに大切にして、それを育てていきたい。

    「こんなふうになりたい」という夢や願望は昔からあったけど、人は、自分の意思とは無関係に使命を歩いているものではないかと思う。過去を振り返ってみても、私が積んできた経験や取り巻いてきた人間関係は、私が将来望むであろう幸せのための鍛錬であったように感じるからだ。

    美術をずっと続けてきたのは、根底に「人間を知りたい」という欲求があったから。私は多分ずっと、人を深く愛したかったんだと思う。一般に言われている「成功」や「幸福」のモデルは、マスコミが作った虚像でしかないことを、早い段階から感じていた。現実的に人と係らなくても、何かを深く見つめ表現し続けることで、目指しているものに辿り着けるような気がしていた。

    必要な出会いはいつも人生で用意されていた。その出会いによって自分の醜い部分を思い知らされ苦しんだのは、清く正しく生きることが本当の愛でも美でもなく、必ずしも幸福になり得ないことを、自分に知らしめるためだった。そういう経験があったからこそ、今私は、自分にとって本当に「心地よい場所」がわかるようになった。

    「成功」や「幸福」のモデルは一つでない。いつも思うが、時代のトレンドを目指してはいけない。なぜならそれは移ろいゆくものだから。本当に求めるものは自分の中にあり、それを外に表現していくことで、必要な人と繋がり、然るべき幸福をつかめるのだと思う。


    TOMOMI SATO
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  • アート生活,  人生

    自然の一部である「人間」。

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    第71回現展出品作。前の記事にも書いたけれど、これは「思春期」をテーマにした連作。人の心に一歩踏み込んで深く表現できた記念すべき作品。でもこれが実際、国立新美術館に飾られた時は、とてつもなく恥ずかしかった。

    審査員の先生に、「「愛」と「妬」はどちらが先ですか?」と聞かれ、「「妬」が先で、「愛」が後です」と答えた。私の中では「苦しみを知らなければ愛することができない」という考えがあったから。でも人によっては、この順序が逆な人もいるだろう。

    人物を描いていても、一貫して自然を描きたかった。自然の一部である人間。その象徴として「愛」を描きたいと思っていたけれど、決してきれいな絵にはならなかった。私の人間観は、思春期から進化していないのかもしれない。例えば、子供は、優しく、思いやりがあり、感情的で残酷である、ということ。でも残酷さが美しく見えたりするのは、いまだに癒えていない傷があるからだ。
    傷を持つ人間は切実で、ひたむきで、悲しい。そしていつまでも、孤独だ。なぜなら、よっぽど優しい人でない限り、誰も悲しみを分け与えられたいなんて思わないからだ。

    そういえば学生の時に、愛をテーマにしたとても明るい絵を描いていたら、母がいきなり入ってきて、「こんなの愛じゃない!あんたは何も知らない子供だ!」と詰られたことがある。それほどまでに母は愛において苦しんでいて、それを理解できない私は幼いのか、と落ち込んでしまった。

    でもこれは間違った思い込みだ。
    誰だって、悲しみよりも、喜びや安らぎ、楽しみを分け与えられたい。傷つけ合いが現実だと思うのは、その人の悲しみが深いからだ。そして悲しみの殻に籠もっているうちは、誰にも真心を届けることはできないのだ。

    佐藤智美 「愛」「妬」2015


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  • クリムト
    美術,  美術評論

    クリムトの女性像

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    クリムト を知ることになったのは17〜18歳の頃だ。一つの塊になった男女のフォルムと、女の恍惚とした白い顔、肉体の塊から地へ流れていく宝石の様な装飾が印象的だった。結合する瞬間は、こんな風にお互いのエネルギーが混じり合うのだと、私は絵から読みとっていたけれど、美しさと儚さの両方を感じた。そう、どんな形であれ、エロスの融合する瞬間は感動がスパークして輝く。でもこの感動を持続させるのは難しい。
    クリムトも生と死をテーマに多くの作品を描いた。赤ん坊から、妖女、老女となる女の生涯や、ユディト像(性的魅力で男を誘惑し男の首を切り落とした女性)など、男性を惑わす女性の魅力と、その儚さを見つめ、エロスの源にある人間の生命力を探った。
    クリムトの女性像は華やかで幻想的だ。結合した後でその奥にある残酷さに直面しても、自分を輝かせる存在として信望し続けている。この強烈な女性信望はどこから来るのか。いずれにせよ、信じ続けて夢を見続けることで、永遠の美を見出していくのかもしれない。

    グスタヴ・クリムト 接吻 180×180cm 1907-08

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