学生の頃、やたらわがままで、元気な目立つ子が苦手だった。彼女は私のことは嫌いではなかったようで、話しかけてきたり、時々思いやりがあったけど、一緒にいると、濃すぎる人だった。
社会人になっても彼女のことは色褪せない。でも彼女のことを好きだったのか嫌いだったのかというと、未だにうまく言い表せない。
学生時代は規則通りの生活をしないと制裁を加えられるので、大抵わがままな子は大人しくなり、忘れっぽい子はしっかりし、怠け者の子は勤勉になっていく(完璧ではないが)。こんなふうに私たちは学校で教えられた「良い子」を目指していた。
良い子は得だ。みんなに大事にされ優遇されて、少し偉くなった気がする。でも、私が本当に魅力を感じるのは、良い子の規範を打ち壊すパワーのある子だった。
大人になって、人生の危機に立たされた時、助けてもらいたい時に、それを上手に伝えられない時がある。弱くなった時は、どうしても「悪い子」が出てきてしまう。泣き叫んだり、怒ったり、みっともない感情を見せたくないから、「良い子」を守り通して、もっと孤独に、不幸になってしまう。
でも本当に孤独から解放される時というのは、自分の中の悪い子を表出して受け入れてもらえた時なのだ。そして自分のことも、他人のことも、もっと好きになる。
誰もが内側に「悪い子」を持っている。その子は大人を困らせるけど、愛されたがっている。悪い子も大事にすれば、良い子に育つ。「良い子」とは思いやりのある、優しい子のことだ。その子がちゃんと受け入れられた時、自分にも周りにも、本当に役に立つ魅力的な子になるのだ。
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昨日書いた記事が抽象的で不完全感があったので、「子持ち様」問題についてもうすこし調べてみた。特に職場で子供のために急に休む人のしわ寄せが子持ちでない人にいくことが問題視されているようだった。
ネット上で子持ち世帯が批判される現象について、それが恋愛や結婚への消極的な風潮や社会的な価値観の変化、女性性の解放や新しい生き方の模索とどう関連しているかを探った。
教会で牧師さんと話していて、「ほとんどの人は欲でものを言い、動いていますね。愛って、あってないようなもの」と私が言ったら「大半の人は反射神経で喋っています。愛とか思いやりとか、深く考えない」という返答が返ってきた。
近頃周りでも、定年を迎えた夫婦の家庭問題や健康、金銭問題の話を聞く。生活レベルを落とした時に表出するいろいろな問題に誰もが諦観的なのは、老いて体が動けなくなってからでは打つ手がないからだろう。
朝起きると、和室の茶色い柱と漆喰の壁が目に入る。ちょうど私が結婚した27年前も同じものを見ていた。いつも彼と一緒にいた。そうすることでやっと生きていた自分は目に映るものがとても新鮮だったことを思い出した。