松山智一展を観に行った。本当はどうしようか、と思ったのだけど、観ておかないとな、と思って、麻布まで足を運んだ。
ギャラリーに並んだ大作群は、美的にどうかというより、圧倒的な熱量と情報量だった。これでもかというくらい細部まで描き込まれた絵のほとんどには説明があり、パッとみでは意図がわかりにくかった。まるで暗号を解いていくみたいな感じで進んだが、第一展示室の半分くらいで疲れてきた。
土日だったこともありお客さんは多かった。でも美術通のような人よりは流行の感度が良さそうな若い人が多かった。美術というよりカルチャーを作っている人という印象だった。
なぜ、行くのを迷ったかというと、前宣伝が多かったから。自分もクラファンやった時に宣伝かなりしたけど、見る前から色々わかってしまうと展示自体の興味が薄れる。それでも足を運んだのは、まさに現代のグローバルなステージで活躍する作家の視点を見ておくべきだと思ったからだ。
ほぼ同時期に開催されていた松井冬子さんの展覧会もかなり宣伝されていた。松井冬子さんの作品は人物像が丁寧に描かれていて深みがあり、絵のいわんとすることにすっと入っていけたのだけど、松山智一さんの作品はデザイン的で、人物の周りにいろいろな要素が散りばめられ、怒涛のような情報を浴びせてくる。また(作家本人の望んでいることかもしれないが)スタッフに描かせている故にまとめられていない部分があり、それをうまく理屈づけしてプレゼンできてしまっているのがすごい。頭脳明晰な人だと思う。
第2展示会場のコラボ作品はウィットに富んでいて面白かった。美術通の人の姿があまり見えなかったのは、このようなカルチャーの提案的美術展を見慣れていないからか。
どうして惹きつけられるのだろう。作品そのものよりも、松山智一という人に惹きつけられているのか。ひとりでニューヨークに渡ってスタッフを率いて制作を続け世界中で活躍する美術家は日本では類を見ない。松山智一さん自身もそんな自分を知らしめたいという並ならぬエネルギーを持っていて、それが多くの人を引き込んでいるのではないかと思う。
松山智一さんの作品からは多人種の混乱と奮闘が伝わってくる。それが世界の中心地、ニューヨークという場所、松山智一さんの日常なのだろう。
私はニューヨークに魅力を感じない。私は私の居場所にいたい。その方が私自身も周囲も幸せにすると思うから。だから松山智一さんがなぜニューヨークを拠点にし、壮絶な努力をしてまで成功を目指すのか、正直、理解に苦しむところがあった。
私の日常は、家族と共に喫茶店でお茶を飲んでほっと寛ぐ時間だった。でも松山智一さんの作品群を見ると、私の日常が非日常に見えてきて、ニューヨークの喧騒が日常のように見えてくる。いろいろなものが関連しあってひしめいている現代社会の現実がシンクロしてきて、なぜか私もニューヨークに出て行って戦わなければいけない気がしてくる。
ヤバイ、と思った。これは、戦略に巻き込まれているのではないか。私が守ってきた居場所、育ててきた幸福を乗っ取られそうになっているのではないか。全方向から見ても完璧な演出に騙されかけている。SNSはどうしてそんな力があるのだろう。危ないと思いながらも抗えないのは、私自身にも、現代では目立って主張していかなければ生き残れないという危機感や焦燥感が少なからずあるのかもしれない。
松山智一 Hello Open Arms
個人的にはこの作品が一番共感できた。和訳すると、「気前よく迎える」という意味なんだけど、同時に銃口を向ける時にも使われる言葉なんだって。なるほど(笑)。
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