• 終戦記念日
    人生,  社会

    親世代が伝えたかったこと。

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    4歳の時、キリスト教系の幼稚園の集会で、赤子が虐殺される映像を見たことがある。ナイフを振りかざす男と激しい泣き声、鮮血に染まるセピア色の画面。痛みがシンクロして私は腹を抑え、歩くことができなかった。
    これは多分、聖書の中の一話で、仇討ちに来るかもしれない救世主を赤子のうちに消してしまおうと、国王が国中の赤ん坊を虐殺する場面だ。

    4歳の私が見ていた世界は平和だった。公団住宅の庭には、青々とした芝生が広がり、小道にはたんぽぽやハルジオンが咲いていて、私はこの長閑な風景をよく画用紙にクレヨンで写し描きしていた。
    団地の4階の窓から見上げる空は、青く澄み渡る時もあれば、灰色に沈む時もあった。でも、この空の向こうで、罪のない人が理不尽に権利や命を奪われているかもしれないんだ、と幼いなりに悲しみを感じていた。

    9歳か10歳の頃名古屋に住んでいて、いとこの家族と万博(よく覚えていないが多分平和をテーマにした国際イベント)へ行った。そこで飢餓に苦しむカンボジアの子供たちの映像を見た。痩せこけて腹が風船のように膨らんだ子供がお椀を差し出しているのを見るに耐えられなくて、目を逸らしていると母に「ちゃんと見なさい!」と叱られた。

    学生時代はこのような映像が本当に苦手で、見ると痛みがシンクロして夜も寝られない事態になる。だけど当時は家や学校教育の一環として、このような映像を見せられることがあった。戦争、飢餓、犯罪、公害。このような映像から逃げていると父が威圧的な表情で「お前もそのうち、この現実を見れるようになるぞ」と言った。

    「過去の悲惨な体験を忘れずに、社会を良くするために頑張らなければいけません」
    1970〜80年代の日本は、そのようなスローガンの元、大人も子供も強固な社会システムの中で身を粉にして頑張っていた。企業戦士の父親は寝る間も惜しんで働き、子供は毎晩深夜まで勉強し、母親はそんな家族の世話をした。システムからドロップアウトした人は、社会から容赦なく除外された。

    学校では、学生を統制しようとする先生たちと体制に反発する不良学生が臨戦状態だった。私は教室の皆が制服の下で何を考えているかわからなかったし、教室で目立つ事をすれば学校側にも不良側にもいつ叩かれるかわからなかったので、緊張していた。
    当時、人の心の大切さを描いた学園ドラマ「3年B組金八先生」や、社会に反抗する思春期の気持ちを歌った尾崎豊が人気を博したのは、社会での在り方と個人としての在り方との葛藤が私たちの中にあったからだと思う。


    私たちの親世代は、身を粉にしてルールに従い、お金を得て生きる事に執着していて、自分が感じていることに鈍感だ。どれだけ社会的圧力に脅かされてきたのだろう。どれだけの忍耐と飢餓に耐えて、戦時中と戦後を生き抜いてきたのだろうか。

    今は本当に自由な時代になった。文部省の方針が合わなくても他の選択肢を選べるようになったのは、社会的圧力に負けずに自分自身であろうとした人たちの功績だと思う。
    社会は常に動き、時代が変わればシステムも変わる。どんな時代が来ようとも、自分の心を素直に感じていけば、自ずと道は開けていく。そうやってしなやかに変化していければいいなと思う。

    写真:1945年8月15日、玉音放送を聞く日本人捕虜たち

    TOMOMI SATO

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  • アート生活,  人生

    デッサン力とオリジナリティ。

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    藤島先生の家には子供はいかなかった。私が行くと奥様が、いつも高級なビスケットやクッキーをくれた。これだけすごい絵を見せてもらって、その上お菓子までもらって、とても恐縮な気持ちだった。この絵の原画は見たことがないけど、先生が12年にわたって描き続けた雑誌の表紙絵だ。当時私にくださった作品集からアップさせてもらった。
    少女は目を閉じてアコーディオンを奏でている。背景は闇のような濃い青。幸せな夢を見ているのだろうか。
    少ない線で的確に形を捉え、感情まで表現するデッサン力は卓越している。


    藤島 奨 「リスボンの少女」

    当時デッサンをやりたいと先生に申し出たことがあったが、断られた。理由は、あまり小さい頃からデッサンをやると、作品が小さくまとまってしまう(絵に面白みがなくなる)ので、今は自由に好きなように描いて欲しい、というのが、先生の願いだった。

    先生の言った意味は、今はわかる。デッサンは観察力を養うのに必要だけれど、あまり早くから基本の技術を身につけてしまうと、基本を壊してオリジナリティを作り上げるときに、障害になるからだ。
    結局私が本格的にデッサンを学んだのは高校2年生からだった。

    今の日本の美術教育では、美術系の高校へ進学するため中学からデッサンを学ぶ人が多い。大学に行く頃にはかなりの技術力がつくようだが、日本の美術大学では、芸術のオリジナリティや、それを実際に社会へ生かしていく術は教えていない。学生は在学中か、社会に出てから自分で探して行かなくてはならない。
    結局生きていくために必要な力は、どこへ行っても同じなのだ。



    藤島 奨 「子供」


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  • アート生活,  人生

    女らしさと清純さ。

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    小学校4年のとき名古屋に住んでいた。家のすぐ近くに一水会の画家の先生がいたので、時々描いた絵を見せに行っていた。先生の家は、町内でも大きく目立つ家に住んでいた。呼び鈴を鳴らすと、上品で美しい奥さん(当時は多分60歳超えていたと思うが)が迎えてくれた。
    藤島先生の家でこの絵を見たとき、肌を肌色で描いていないのに驚いた。画面の中で、これだけたくさんの色を使っているのに、なんできちんと人間に見えるのだろうと思った。

    天井が高く大きなアトリエに、先生はいつもいた。巨大な絵画がたくさん置かれていて、先生はイーゼルに立てかけられたキャンバスに、ナイフを使って絵具をつけたり削ったりしていた。先生の周りには、たくさんの絵具と筆があり、それらを使って、パレットの上で注意深く絵具を作っていた。その様は、絵を描くというよりも、もっと大がかりな仕事のように思えた。私が自分の絵を見せると、優しく笑って、「絵心を忘れないでね」と言った。

    家に帰って、先生のやっていたように、肌を描くのに肌色を使わず、緑や紫やオレンジなどをナイフで塗ってみた。でも先生のように上手くいかなかった。思ったより絵を描くことを難しく感じた。

    今になって思うが、9歳の子供が64歳の画家の絵を真似しようとしても、流石に無理だと笑ってしまう。だって先生は、何十年も女性を描き続けて、あのような画風になったのだろうから。柔らかい土色の頬と、背景や着物の荒いマチエル、爽やかな赤白青のコントラストで、舞妓の女らしさと清純さを伝えられるのは、鍛え抜かれた感性でそれをしっかりと捉えることができるからだ。


    藤島 奨 「舞妓」100×80cm 1964


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