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「陽キャラ」と「陰キャラ」。

教会で牧師さんと話していて、「ほとんどの人は欲でものを言い、動いていますね。愛って、あってないようなもの」と私が言ったら「大半の人は反射神経で喋っています。愛とか思いやりとか、深く考えない」という返答が返ってきた。

反射神経で喋っているとかいないとかで愛があるかどうかは測れないけど、愛があっても相手の全てに責任を負わない。現実の人間関係とは、それくらいいい加減なものだ。

私はすぐ言葉の裏を読もうとしてしまうんだよなあ。そうしなければいられないくらい他人に安心感を持てない。そして優しさを示して相手を安心させたいと思う。でも、そこにつけ込んで甘えてくる人には不快感を持つ。「あんたにそこまでできないよ」って。

身の回りのインフルエンサーとかネット起業している人で、フォロワーにわかりやすい媚び売っている人がいたけど、私は気持ち悪くて離れた。優しさをそういう風に使っちゃいけないよ、それは詐欺だって思った。でも私も同じようなことをしていたんだ、と気づいた。




10〜20代の頃は友達とワイワイやりたくてもうまくできなかった。自分の感情をストレートに出すことがみっともないことのように思えたり、あんなことしなければよかったと後悔したりした。

中高生時代のアルバムで、友達と写っている修学旅行の写真を見ても、楽しんだ記憶がない。いつも遠慮してたからな。友達とワイワイやれている人に憧れと羨望を持っていて、そのような人たちと活動したこともあったかもしれないけど、あまり印象に残っていない。
自分の感情が皆にとって良いものか悪いものか自信が持てなかった。今であれば、自分の感情に良いも悪いもないとわかるが、当時はそれがとても苦しかったので、自分と対話することが多かった。先生や私より精神年齢の高い人に聞いてもらって自分を見つけた感動は今も印象に残っている。

落ち着いていることが良いことだと思っていた。実際それが友達からの信望を集めていた。
でも私のことを「落ち着いて大人っぽいから好きだ」という人には興味がない。人とワイワイやれるような幼心を解放してくれる人に出会いたいと切実に願う。



今は、人とワイワイやれる人を「陽キャラ」、落ち着いている人を「陰キャラ」というらしい。陽キャラは人生を謳歌し、陰キャラは人生を味わっている。

皆ではないが、陽キャラは他者目線を意識し、社会的地位、財産、名誉で、安易に人を評価する。内面が浅めなので話が奥まで行かず、結局疎遠になることが多い。互いに努力してわかろうとしなければ、ずっと接点を持てないで終わるかもしれない。

なんで私は陰キャラだったのか。それは不用意に出した感情でトラブルになることを恐れていたからだ。特に少女期は、男の人を怒らせると怖いということが、ずっと意識下にあり、それは自分の父親が怒ると何するかわからない人だったからだと気づいた。

このようなことを考えない人は、考えないまま自分本意に生きるのだろうけど、私は解決したいと願ってきた。その話を牧師さんとしたら、「戦っても恐怖は完全には消えない」と言われてしまった。
これは運命だろうか?

今私と繋がっていて心を通わせる人たちは、私と同じような傷を持ち、同じようなものを大切にしている人たちだと思う。そのような繊細な人たちに感情をぶつけるなんて残酷なことはできないから、せめて傷から解き放ち、エキサイティングな未来に飛び立てるように応援したいといつも願っている。

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