(前回の記事の続き)
私はなぜ美大の講評会に浜田麻里のグラフィックアートを持っていけなかったのだろう。持っていけば、それなりに周りを楽しませたかもしれないのに。
私がやっていることは誰もやっていなかったので、ゴールが見えなかった。エネルギーを放出しっぱなしというのは嫌で、権威なる人に着地点を見出したかったが、そもそもインスパイアされているのが大衆芸術だったので無理があった。
卒業間近の頃、担任の先生の個展に伺った時に「君は画家に向いていない、教師に向いている」と言われた。
先生の話によれば、芸術家に必要なのは芸術性であって、人間性ではないという。
「美大を卒業しても80%以上は美術をやめるよ。皆、生活の方が大事になるから。この学年には良いのはいない、一年下にはいいのは少しいるけどね」と先生の口から聞いた時は、美術家の本性、というか、生きている世界を垣間見たようで怖くなった。
当時は、変なフレーミングがあったな。「人間」というフレーミングと、「芸術家」というフレーミング。親や学校から教わった固定概念。フレームの中で頭を回転させているかぎり、私らしく呼吸ができない。斬新な作品も生まれない。先生は多分、そこを言いたかったのだろう。
フレームを外して、素直に楽しんでいれば、私のエネルギーは好きなように踊って、必要な人に届いたかもしれない。
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昨日書いた記事が抽象的で不完全感があったので、「子持ち様」問題についてもうすこし調べてみた。特に職場で子供のために急に休む人のしわ寄せが子持ちでない人にいくことが問題視されているようだった。
ネット上で子持ち世帯が批判される現象について、それが恋愛や結婚への消極的な風潮や社会的な価値観の変化、女性性の解放や新しい生き方の模索とどう関連しているかを探った。
教会で牧師さんと話していて、「ほとんどの人は欲でものを言い、動いていますね。愛って、あってないようなもの」と私が言ったら「大半の人は反射神経で喋っています。愛とか思いやりとか、深く考えない」という返答が返ってきた。
近頃周りでも、定年を迎えた夫婦の家庭問題や健康、金銭問題の話を聞く。生活レベルを落とした時に表出するいろいろな問題に誰もが諦観的なのは、老いて体が動けなくなってからでは打つ手がないからだろう。
朝起きると、和室の茶色い柱と漆喰の壁が目に入る。ちょうど私が結婚した27年前も同じものを見ていた。いつも彼と一緒にいた。そうすることでやっと生きていた自分は目に映るものがとても新鮮だったことを思い出した。