ニートや引きこもりの家族を持っている人に、その家族のことを聞いてみたら「あいつ最低だよ」と否定的であることが多い。でも本当はその家族を憎んでいるのではなくて、得られなかった愛にたくさん傷ついて、奪われた膨大な時間を嘆いているのだと思う。
ニートや引きこもりになる人は、そうなってしまった背景として、人と違う才能を持ちながらも、それの使い方を知らなかった(教わることができなかった)のだと思う。
自分自身を生きることを許されない代わりに、他人のいろんなものを奪ってしまったので、周りの人はその人の本当の悲しみまで見ることができない。
感謝を教えない、機能しない家族の中で苦しんでいる人は、いっそ、その絆を遠いところへ投げ捨てて、新しい自分を生き直したほうがいいと思う。
家族であれ恋人であれ、一緒にいて相手を成長させられないような関係は、どんなふうにしたって、いずれ終わるんじゃないかな。
AKBのアイドルだって、40〜50代になっても可愛い子ちゃんではいられない。それぞれの年代の幸せを掴むために、私たちは成長し続けているのだ。
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昨日書いた記事が抽象的で不完全感があったので、「子持ち様」問題についてもうすこし調べてみた。特に職場で子供のために急に休む人のしわ寄せが子持ちでない人にいくことが問題視されているようだった。
ネット上で子持ち世帯が批判される現象について、それが恋愛や結婚への消極的な風潮や社会的な価値観の変化、女性性の解放や新しい生き方の模索とどう関連しているかを探った。
教会で牧師さんと話していて、「ほとんどの人は欲でものを言い、動いていますね。愛って、あってないようなもの」と私が言ったら「大半の人は反射神経で喋っています。愛とか思いやりとか、深く考えない」という返答が返ってきた。
近頃周りでも、定年を迎えた夫婦の家庭問題や健康、金銭問題の話を聞く。生活レベルを落とした時に表出するいろいろな問題に誰もが諦観的なのは、老いて体が動けなくなってからでは打つ手がないからだろう。
朝起きると、和室の茶色い柱と漆喰の壁が目に入る。ちょうど私が結婚した27年前も同じものを見ていた。いつも彼と一緒にいた。そうすることでやっと生きていた自分は目に映るものがとても新鮮だったことを思い出した。