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人はなぜ、人が怖いのか。

テレビで、心霊現象の番組を見ていた。歌手のコンサートのミュージックテープに、女性の声が入っていたという話だ。
ミュージックテープが使われていたのは、だいたい1970〜80年代だろう。雑音の入り混じった歌手の声と、観衆の拍手の中に、女性の「私も聞かせて〜」という絞り出すような声が聞こえた。なんらかの理由で、コンサート会場に行くことができずに死んでしまった女性の声ではないかという。

「怖い」と言って、夫がテレビを消し、席を立った。
「地震とか、火事とかも怖いけど、人の念って、なんか怖いよね」と私がいうと、「人間が一番怖いよ」と夫は言った。

人の念って、なんかな、頑張っても頑張っても、吸い取られるようなイメージだ。
特に生き霊になるような人の思いの出所って、正体不明というか、そもそも生き霊になる人も、どうしたら良いかわからないのだろう。こうすれば解決、と割り切れるものでもない。

人が人を憎む時、その憎しみは必ずしも対象者に向けられたものではないかもしれない。それまで、その人が他者から搾取された無念を、たまたま居合わせたその人にぶつけていることも多いのだ。




仕事をやめて育児を始めた頃だったか、とても人が怖い時があった。保健婦さんに「あなたはとても怒っていることはない?」と聞かれた。自分の中で怒りを溜めていると、自分が怖くなってしまう、というのは、よくあるらしい。

家では安心の要であろうと、リッラックスを心掛けていたのだが、そういう心がけが自然な感情に蓋をしているのは解っていた。自然であることを恐れているような。いろんな経験をして自分を知る努力をしてきたけれど、それでも人間って計り知れないと思う。

もし私がいつか、お金も体力もなく、本当に無力な存在になったときに、誰も助けてくれなかったら。信じていた人に見捨てられたら。一番受け入れ難い状況に、いつも準備している自分がいる。でも、そういう思いを抱えていることを、誰にも言えない。特に身近な人には。「大人なんだから」と片付けられたら、本当に救いようがないからだ。

こんなふうにして抑えつけられてきた感情が、ふとした拍子に発動することがある。ネットのスレッドを見たときや、チャットの返事が来たときなど、日常の何気ないことがきっかけだ。

世の中で起きる多くのトラブルは、その気がなくてもなんだか見過ごせないことに手を出して、巻き込まれたケースが多いのではないか。どんなに自分を律していても、起きる時は起きるのだ。それこそ天災のように、身に降りかかる。

私たちの大きな誤解は、自分、あるいは他人を信じすぎていることだ。この人なら大丈夫、この人なら信じられるというのは、本当は確証がない。にもかかわらず、私たちは信じずにはいられない。体の奥の深い欲求として、信じていたいのだ。

それがいいのか悪いのかは一概に言えない。本当に誰も何も信じなくなってしまったら、誠実さえ失ってしまうような気がする。人間ってそれくらい、弱いものだと思う。




最近よく聴くYoutubeの仏教番組で「無明の闇を破る」という言葉を聞く。
人間は死の不安をいつも抱えていて、仏教はそういった不安を解消する教えを説いている。私はまだ仏教初心者なので理解が浅いかもしれないが、「自力」を捨て、「他力」を信じ、人間に生まれてきたことを心から喜ぶことで救われるという。
「信楽」とは後先を案じるのではなく、今ここを感じる幸福のこと。それは私も感じたことはあるけど、持続しないんだよな。


「他力」ってなんだろうか。
他人から「他力」をもとめられることは、よくあるのだけど。

他力を求める力は、閉じられた感情の蓋が外れたら、飛び出してくるのかもしれない。私にとって他力になり得るものを、求めていかなくては。


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