小学校2〜3年の頃、学校から帰ってランドセルを置くと、友達と遊ぶために外へ出た。玄関を出て砂利道を少しいくとアスファルトの道路に出る。右に曲がると、石造りの垣根の向こうにはたくさん実をつけた柿の木が立っていた。
5年ほど前まで、ポロンというネザーランドドワーフの女の子が我が家にいて、10年間私の仕事部屋に住んでいた。10年も一緒にいるとウサギというより、顔見るだけで何を考えているかわかってしまう姉妹のようだった。
小説を書くことにも、大量にデザインの仕事をこなすことにも限界が見えてきたのが35歳だった。頑張れば頑張るほど本来の私から離れていく気がして、一度、頑張ってきたことから離れてみようと思った。
共感してもらえるって、ありがたいことだ。水沢さんは文学だけでなく、私を人間としても認めてくださったのだ。なのに私は、自分を高めることばかり考えていて、水沢さんの厚意をきちんと受け取ることができなかった。
詩集の出版をして、言葉の威力を知った私は、HPでエッセイや、小説を書き始めた。好き勝手に書くことだけでは飽きたらなくなって、プロの小説家が教える小説学校へ通い始めた。
「縛られた人生はもう終わり。これからは、自分の力で自由に生きていく」そう決意した時、抑圧されていた創造力が一気に溢れてきた。
アトリエで描いていたら、教授に「陰気な絵を描く人は絵の全体から暗い雰囲気が漂っているが、あなたの絵は色が明るい」と言われた。要は「あなたの本質は陰気ではない」と言いたかったのだろう。
大学3年次に、抽象クラスと具象クラスに分かれた。私は具象クラスに入ったものの、アカデミックな写実表現から抜け出ようとしていた。
大学1、2年時は基本的な描画の授業が多くて退屈だった。私のデッサン力はとても誇れるものではなかったけれど、もっと心の奥深くから出てくるものを表現したかった。
大学受験の時はたくさんの木炭デッサンを描いたが、描くことを楽しめてはいなかった。