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「評価」というもの。

若い時から闇雲に評価を求めていた。何故って、評価されて確固たる地位を得ないと生きていけないと思っていたから。これって爬虫類的な考え方だなと振り返って思うけど、学校では勉強のできる子が待遇がよく、落ちこぼれがいじめられ、すみっこに追いやられるのが現実なので、ポジション取りのために頑張っていた。

中高時代に何度か学生生活が乱れたことがあり、先生の言葉で踏みとどまった。その時は先生の信頼して頑張れたけど、卒業後に先生を慕って会いにいくということはあまりなかった。
先生は学生を管理するのが仕事だということはわかっていたし、自分の居場所を得るために真面目に学生をやってしまう自分のことも本心は好きでなかったのかもしれない。頑張ったことはたくさんあるが、学校に対する思いはどこか冷めていた。

それは大人になってからも続いているような気がする。仕事で頑張って会社や権威ある人に認められようとしたのは、私自身のサバイバル力を磨きたかったから。でも、誰のためでもなく自分のために頑張っていることは周囲も承知で、ちゃんとした評価が下りることはあまりなかった。
自分のことをちゃんと伝えていないから、相手も見てくれていないと思う。評価する側を信頼できていないんだろうな。

評価って、どこから来るか。評価する側を尊敬し、そこに近づく、あるいは喜ばれようと頑張るから認められるのであって、尊敬のないところで、それはあり得ない。どうしてこんな当たり前のことがわからなかったのだろう。

評価が欲しかったら、先ず自身が尊敬するべき対象を見つけるべきだ。そこに全精力をかけても構わないような。


日展とか院展で、真っ直ぐ画業に進んで出世していく人がいるけど、そういう人たちは(皆ではないと思うが)芸術で社会に何かしようという野望をもっているわけではないと思う。ただ「美しいものは美しい」と心から言っているだけで、有り余るほどの感動を放出したい欲求で生きている人たちなのではないか。

そういうことができるのは、その人が精神的にも物質的にも、サバイバルなんて気にしなくてもよい環境にいるからだと思う。「作品なんて描いてもしょうがないから働け」なんて俗っぽいことを言う人が、一人でも周りにいたら、美を追求することが罪悪感に変わってしまう。

近代の日本では、佐伯祐三や青木繁、田中一村など、貧困の中でも優れた作品を残した人もいる。そういう人には必ずと言っていいほど、理解ある配偶者や家族がいた。
芸術を追求する。精神世界を生きる。夢や理想を実現するのは、独りよがりでは難しい。

剥き出しの愛を持った自分になれるか。その愛をまっすぐに差し出せるか。 
脂臭い現実から飛び出し、夢や理想にダイブするためには、その夢や理想を理解してくれる人の協力が必要なのだ。


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